昭和四十三年十二月二十九日 朝の御理解
御理解第七十六節 「人間は人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」
助け助けられると言う事。人間の人と言う字は、もちつもたれつ、それが「人」と言う字になっておる。「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか」。所謂もちつもたれつしていけると言う事ですね。ところが私達の心の中には、もちつもたれつと言う心があるだろうか。牛馬なんかは、もちつもたれつしていけると言う心がない。自分が助かればよいと、人間は、人の難儀を見ると助けてやりたいと思う。また助ける働きをする。それは牛馬と違い、お互いの心が、良心があるからである。
「人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから」とおっしゃる。神様に助けてもらうから、人を助けると言うのでもないと思う。信心がなかっても、助けてもらうと言う事を知らない人でも、やっぱり助けたいと思うたり、助けたりする働きは致しております。ですから、信心させて頂く者は、特にこの辺を深く頂かねばならんと思うのです。神に助けてもらうという事。「人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ」。これは、人の難儀を見た時に助けたいと思う心。
その時に、起きてくる良心と言うのだけでなくて、いつも心の底に、言わば、助けねばやまんと言う心が出来てくる事を有難いと心得て信心せよ。ここのところが信心のある者とない者の違いだと思うのです。信心はなくても病気災難の時、神様に助けてもらわないでも、やはり人の難儀を見ると助けたいと言う心が起る。また自分に力があるなら、助けたいと思う。けれどもそれは、いつも助かる事が出来るのを有難いとは心得ていない。信心させて頂くものは、ここのところが出来ていかなければならない。
助けたい助けたい、どうでも人の難儀を助けたいと言う。そういうものが、私はお導きでもして回る人達は、そういう心に燃えておる人だと思うのです。その助けたい助けたいと言う心が段々募って、助けねばやまんと言う熱情と言うか。そこで、ここで信心させて頂く者、病気災難の時助けてもらっておる者が、ここに自覚を要するところです。果して、私共の心の中に、助けたい助けたいと言うものが育っていきよるだろうか。又は助けねばやまんと言う熱情があるだろうか。
信心させて頂く者は、ここのところがやむにやまれんものになって来なければいけないと思う。人の難儀を助けるのが有難いと言うところが。確かに人に親切を施す。それを人が受けて喜ぶ。その喜ぶ顔を見ると、自分も嬉しい。七十七節の最後に、「陰で人を助けよ」と言うてありますが、こういう、言わば陰で人を助けると言うような信心。同時に人の難儀を助けられるのが有難いと心得られる信心。しかもそれが、ここのところは、信心を頂いておる者。大体に於て、そうでなからなければ、ここのところは気付かないし、分からないところだと思うのです。
けれども、果して信心さして頂いておる者でもです。ここのところの熱烈な心とでも言おうか、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心しておる者が、どの位あるだろうかと思う。そこでもう一遍、一番初めのところを思うてみたい。「人間は、人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか」とこうおっしゃる。なぜ有難いのであろう。成程、人を助ける、人が喜ぶ。その喜びの顔を見ると言う事は有難い事なんです、やはり。けれども、それだけじゃない。これはね、人間は人を助ける事が出来るほどしの力。助けれるほど、に自分が助かっておるから有難いのです。
厳密にそこのところを探し出してみると。自分が助かっておると言う事なんです。自分にはまあだ助けるゆとりがあると言う事なんだ。心で助ける。心にそれだけのゆとりがあると言う事。お金で人を助ける。お金がそれだけ人を助けるだけ余分に持っておると言う事。物で助ける、同じ事。だからそれが有難いのである。そこで人間は、人を助ける事が出来るという事は、自分自身が助かっておるから、有難いのである。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるからと言う。
助けられると言う事と、人を助けると言う事。異質のものである。そこで私共はどうでも人を助けれるだけのゆとりを持ちたい。また助けられるだけの力を頂きたい。そこでそのゆとりを頂く為に、力を頂く為に、どのような信心をさせて頂いたらよいだろうかと言う事になる。自分が助かりたい、自分が助けてもらいたいばっかりに信心しよる。ところがなかなか、ゆとりのある程の助かりは難しい。そこで私は信心させて頂く者は、まず分からして頂く事はです。いわゆる喜びの発見です。今迄気付かなかった。
だから、ここで助けてもらうじゃなく、助けてもらっておる事に気付かしてもらうと言う事。そしたらです、そこからゆとりが出来てきた。宝の持ちぐされ、持っておっても頂いておっても、気がつかなかった。信心させて頂く事によって、それに気付かして頂く。そこに喜びの発見がある。だから、私は助ける事が出来る事の為に、ゆとりを頂かなければならない。だからどうぞ神様、力をお与えください。どうぞ助けられるだけのゆとりを下さいと、言うておるだけでは、いつ迄たってもゆとりは与えられない。
そこで、そういうゆとりを頂かして頂く為にです。喜びの追求、喜びの発見と言うのがあるのです。お話を頂けば頂く程、助けられておると言う事が分かってくる。言うならお金はないけれども、体が健康であると、そこに喜びが出てくる。喜びの発見。その喜びがです、人を助ける事の出来る原動力になるのです。ですから、助けねばやまんと言ったようなものはです。その喜びがいつも心の底にたぎっておる人です。そこから初めてです。この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと言う。その、いよいよ誰が見ても、誰が聞いても、やっぱりおかげ受けられるなあ、と言うおかげにつながっていくのです。
人を助ける事が出来るのは有難いと言う事は、助けられるだけのゆとりがあるから有難いのである。そんなら、そのゆとりがない。ないからこそ神様にすがって、おかげ頂きたいと思うて信心しよったら、そこに喜びの発見があった。ゆとりがないと思うておったゆとりが出来てきた。それが有難い。その有難いと言う心が人を助けねばやまんと言うものであり、またそれが信心の喜びである。ですからここでは、喜ばなければおられない、<もとを>、そこで発見する。
だから、言わば本当の喜びが湧いてくる。その本当の喜びが湧いてくるから、今度は、その喜びに限りのないおかげ。神に助けてもらうのであるからと言う助かりは、<そ>れからである。<自分>が助かると言う事は、どういう事かと、我情我欲が取れてくると、そこに自分の助かりがある。ところが果して、その我情我欲と言ったようなものが、取れるもんだろうか。我情我欲を離れると、わが身は神徳の中に生かされてありと言う喜びが湧くと、こう言うが、果してその我情我欲と言うものが取れるもんであろうか。これが今日、私が言う、喜びの発見によって、我情我欲が清められるのです。その喜びによってです。
我情我欲が高度のものになってくるのです。発見する喜びと言うものは、そういう不思議な力を持っておるのです。ですから、どうでも喜びの発見をしなければならない。人間と言う者は、一生、この我情我欲と言うものははずす事は出来ないのである。けれどもそれを限りなく清めていく、高度のものにしていく事は出来る、と私は発見した。例えて言うなら、[「欲しいと思わぬ。雨垂れの音を聞く」]。昔の私の詠の中によく出てくる。
雨垂れの音を聞きながら、じっと、こう瞑想にふけっておる。暑いと思わなければ寒いとも思わぬ。あれが欲しい、これが欲しいとも思わぬ。なんとも言えないひとつの三昧境とでも申しましょうか。有難い有難い、言わば境地なんです。雨垂れの音を聞きながら、じーっとこう、欲しいとも痛いとも痒いとも思わぬ。そこはね、確かに痛いも、痒いもないからなんです。実を言うたら、喉の乾く事も、ひもじい事もないからなんです。暑くても寒くてもそこにはです。例えば暑かってもそこに、涼しい風が吹いておるとか、寒かっても暖を取るだけの着物を着せて頂いておるとか。そこに何の言いようもないおかげを頂いておるからなんです。
そういうおかげを頂きながらです。私共が目をつぶって考える事は、まあだその上に欲しいと言う心、言わば貪欲である。今、考えて見ると、痛いもなければ痒いもない。ひもじい事も喉の乾く事もない。それこそ欲しいとも思わぬ雨垂れの音を聞いておるおかげを頂いておるのにもかかわらずです。目をつぶって、そういう<風>に有難いと言うのでなくて、目をつぶれば我情我欲が渦巻いてきて、その上に欲しいとする。それを我情我欲と言う。私共の情とか欲。これは取れるはずがない。
けれども、この我を取る事は出来る。そこに信心は、喜びの発見がそこにあるでしょうが。雨垂れの音を聞きながら、欲しいと思わぬ。その心が有難い。それはなぜかと言うと、痛い痒いも暑い寒いもないからなんです。けれどもですよ、我ははずしておるけれどもです。そんなら、そこに昨日から食べてないと言う事になったら、お腹の中で、言わば欲しい虫がぐうぐう言いよるでしょう。渇きがあれば水を飲みたいと言う心が起ってくるでしょう。
うずくごと冷たいなら、そこに暖を取りたい。暑いなら、涼しいところに、日陰を求めていく心。この心は、人間は取る事は出来ないと言うのである。その心を信心によって、清め高めていくと言うのが信心。そこに信心によって、助かっていくと言う。その心が高められていく事によって、どういう事になるか。我情でない我欲でない、けれどもその思いである。その欲であるそれはね。どういう事になってくるかと言うと。人の難儀を助けるのが有難いと、そういう高度なものになってくる。
人間は、人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。それは、自分が助ける力を持っておるから有難い。その助かると言うのは、だから助ける力を頂きたいと願うけれども。そこに願うて頂けるものじゃないけれども。そのゆとりと言うか、その喜びを発見していくと言う事によって、ゆとりが出来る。その喜びの発見が、喜びが喜びを生んでいくとこう言う。牛馬はわが子が水に落ちてもとおっしゃるが、人間と牛馬はどこが違うか、同じなのである。しかし人間は良心がある。
そしてそこに喜びを発見していく事が出来る。それが違うだけ。ですから、その喜びの発見も、又は良心的でないとすると、その人は牛馬と同じ事になる。只そこのところの違いが牛馬と違うだけ、欲望と言う事に於ては、牛でも人間でも同じだ。それを私共は、信心によって、欲を取る訳じゃないけれども、我を取る。この我情我欲と言う、そこ迄は牛馬と同じ事、信心によって我を取るところに、人間の違いがある。そういう例を、雨垂れの音を聞くと言う、その句の中から、欲しいとも思わぬ。
それは私共が、おかげを受けておるから、欲しいとも思わぬのである。暑くも寒くもないから、なんにも感じないのである、と言う程におかげを受けておると言う発見。それからと言うて、一日食べんやったら、もうひもじゅうなる。だからそれを求める事がいけないのじゃあない。それを求めて与えられると言う事は有難いという事である。だから我情我欲と言うものがある。それを信心によって、清めると言う事によってです。
その欲を取り払うのじゃない。その我が払われるだけである。その払いに払いし、清めに清めさせて頂くところからです。その欲と言うものが、その情と言うものが高度のものになってくる。高度のものと言うのは、それが求めよ、さらば与えんであって、求める心それが我のない求め方。そこには与えられんと言う働きがある。「人間は人を助ける事が出来るのは有難い」と言うのは、助けられるだけのゆとりを持っておるから有難いのである。そのゆとりと言うのはです。
私共が、本当の助かりと言うのは、我情我欲と言うその、我を取らせて頂いた欲と言うか。それが助けられる。それが助かる事につながると言う、助かりであってです。初めて、本当の意味合いに於て、助ける力にもなると思うのです。今日は、大変理屈っぽいお話でしたが、お互いの助けるとか助けられると言う。それを言うなら、掘り下げて考えてみた訳です。
そしていよいよ助けてほしいと言うその欲しいと言う、その欲と言うものはです。お互いが持っておるけれども。それに我がついておる人とついてない人がある。その我と言うのは信心によって清め払う事が出来る。例えば信心しておっても、そこのところに焦点を置かない人は、いつ迄たっても我情我欲である。これでは天地につながるような、限りない助かりにはつながらない、と言うような事を申しましたですね。どうぞ。